「わかる」ということ(2)
憲法にみるイメージすることの大事さ
前回(2019年6月26日の記事)から「わかる」ということをテーマに書いています。
「わかる」というのは、その知識を脳内でイメージとしてとらえられること、そして、脳内の知識と問題文で与えられた情報とがリンクするようになって初めて「わかる」と言えるんだというのが、とりあえずの小括です。
今回は、もう少し掘り下げていきましょう。
例えば、「憲法は議論が抽象的で難しい」という方、多いですよね。
これって、まさに法学におけるイメージの大切さをおろそかにしている典型だと思うのです。
例えば、憲法の条文を読むと「・・・表現の自由は、これを保障する。」(日本国憲法第21条第1項)と書いてあるのですが、そう言われたところで、その文字だけでは何のこっちゃわからんわけです。
「表現」とは・・・「自由」とは・・・「保障する」とは・・・。
ですが、「表現」って・・・何・・・というイメージを少しでも持てれば、その自由が侵される痛みやつらさを少しは想像することができます。
その自由が侵される痛みや辛さを想像するとともに、その自由を謳歌されることにより生まれる痛みや辛さも想像できませんか(例えば、差別表現とかですね)。
そして、その当事者間の対立・紛争をどうしたら解決できるかというのは、その痛みやつらさについて、公平さを保ちつつ解消していける基準を立てていけばいいわけですね(この基準がいわゆる違憲審査基準というやつですね)。
とはいえ、憲法の厄介なところは、その判断基準を文言で明確にしていないというところです。
民法についてみてみましょう。
民法第94条第1項は「相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。」としています。
どのようなときに意思表示が無効になるのかを(一応)明確にしていますね。
この点では、憲法と違います。
文字で明確に示されている分、条文を適用した場合のイメージが持ちやすいですよね?
この差が、憲法が難しいと言われる所以だと思うのです。
「法的紛争を解決すること」です。
そして、その解決法も同じです。
具体的な法的利益を想起し、条文を駆使し、法的三段論法に沿って、結論を出すことです。
やっていることは同じなのに、憲法だけ異次元の科目のように捉えてしまうのは、おかしいと思います。
他の科目では条文で与えられている文字情報を自分の想像で補わなければいけないだけなのです。
こう考えると、憲法という科目も少し怖くなくなりませんか?