「わかる」ということ(1)
「わかる」とは何かを知っておかないと遭難する
そろそろ、予備試験・司法試験で使える情報を提供したい思う頃ですが。
ありがたいことに私のブログを読んでくださる方も、やきもきする頃だと思いますが。
「想像力」というワードから派生させて、もう少し、イメージの話を書いていきたいと思います。
法学の話に限ったことではありませんが、そもそも「わかる」って何なんですかね。
日本語がわかるとか、彼の気持ちがわかるとか、答えがわかるとか、言いますよね。
普段からなんとなく「わかる」という言葉を使い、その意味を理解しているつもりの人も少なくないと思います。
ですが、多くの受験生がこの「わかる」ということをわかっていないために、法学という大海原のど真ん中で遭難しているのをよく見かけます。
私自身も遭難していた一人です(泣)。
教科書を読んでキーワードを覚えた、論証を暗記した、典型事例についての知識は、頭に入っているという段階に至れば、ある程度問題を解くことができるようになります。
これは、「わかる」という状態にあるといえるのでしょうか。
必ずしもわかっているとは言い切れないと思います。
全くわかっていないというわけではないのでしょうが、実際に問題を解いてみると、知っている問題にしか対応できないという方が多いと思います。
そのような方は、典型事例から少し条件が変わると途端に意味不明なことを書き始めます。
法的三段論法を守らず、構造的美しさのないだらだらとした文章を書くようになります。
他方で、同じ程度の知識しか持っていなくても、どんな問題でもそれなりに解答を行うことができる方がいます。
予備試験・司法試験に合格していくレベルの受験生だといえるでしょう。
この方達は、「わかる」に達していると言っていいと思います。
何が違うのでしょうか。
「この論証知っている?」「この論点知ってる?」とか言う質問をすると、おそらくどちらも同じ程度に「知っている」と答えられるでしょう。
でも、解答力には、埋めようのない差が生まれている。
この差こそが「わかる」かそれ以外か、の差だと思います。
私の考えるメルクマールは、「その知識をイメージとしてとらえられているかどうか」というものです。
知識がイメージとしてとらえられていれば、問題文上の文字表現が変化しても、脳内の知識と解答にあたり求められる知識がリンクしやすくなります。
「わかる」という段階に至っているのは、この状態にあるということだと考えます。