理論構造の明確さ(1)
さて、前回のブログでは、弁護士が作成した文書に感動したという話を書きました。今回はそれを端緒に予備試験・司法試験、その他法律系資格の取得につながるエッセンスを示せればと思います。
結論から示しますと、私は上記文書に
「理論構造の明確さ」
を感じ、感動したのではないかと思っています。もちろん、精緻な法理論もそこに存在したのでしょうが、高校生の私がそれに気づくはずありません。
難関の予備試験・司法試験でも結局のところ、ここが最大のポイントにだったと気づくのは、上記の出来事から10年も経った時のことです…(泣)。
難しい法律問題を制限時間内に完全に解ききることは、ほぼ不可能でしょう。事前にどれだけ正確に精緻な法理論を頭に叩き込んでいても、知らない問題は出ます。また、頭に叩き込める知識の量には限界があると思います。そもそも法律知識の量や正確さで合格を勝ち取ろうとするのは、無理筋だと思うのです。すなわち、精緻な法理論を身につけて合格するというのは、実は至難の技だと思うのです(予備試験・司法試験に合格する人の中には大天才も少なくないですから、不可能とまではいいません汗)。
これを言うと、「じゃあ法律知識がなくても予備試験・司法試験に受かるというのか?」というご批判を受けますので、お答えしますが、当然そんなことはありません。
法律知識の量や正確さを軽視しているわけではないのです。これらを得ることが法律学習の主目的であってはならないのではないかという問題提起をしたいのです。
精緻な法理論の成立には、条文さらにはその制定に至る要因となった法的利益が前提として存在しています。法理論は、これらの前提から論理的にかつ正義にかなうように構築されたものに過ぎません。この世に生まれた誰かの一見解に過ぎないのです。時代の変遷、社会の変化に伴い、その妥当性が否定されることもあり得ます。そんな儚いものを盲目的に信頼し、日夜暗記に走るのは、いかがなものでしょうか。
もちろん、学習の過程で様々な法理論に触れ、自己の見識を深める努力は必要です。ですが、それがゴールではないと思うのです。ゴールはもっと先にあります。ゴールは「理論構造の明確さ」を表現出来るようになることだと考えます。
基本書・参考書・判例集等で見る法理論は、あくまでゴールに向かうための踏み台にすぎないと言えるのではないでしょうか。
少々長くなりそうです。この続きは、また次回書くことにします。理論構造を明確に表現できるだけで予備試験・司法試験に合格できるのか、より深く掘り下げられればと思います。